「哀愁しんでれら」を観て、幸せについて考えてみた
どーも、こんにちは!アトピーで乳がんだけど元気にヨガインストラクターしているaya.です!
私は映画を1人で観にいくのが好きなんです。
私は好みがちょっと個性的なので、
私が見たい作品を見たいと思う友達が、なかなかいなくて(単に友達が少ないとも言うw)
気を遣って誰かと見るよりは、1人で観た方が気楽でいいかなって思ったのが始まり。
誰かと観に行って、観た後「面白かったね〜!!」とかって感想を言い合うのも好きなんですが、
1人で余韻を楽しむのが結構好き。
誰かと一緒に見る時は、「面白かったー!」とか「感動したー!」とか
テンション上がる感じの終わり方だと、満足感が倍になる感じがするんだけど、
バッドエンドだったり、重めの話だと
観終わった後も、その雰囲気を引きずってズーンとしてしまうんですよね。
逆に、1人だと、いつも考えないようなところまで思考が深くなっていくというか……。
あれは、どういう意味があったんだろう……とか、どうして、ああいう終わり方だったんだろう……
とか、黙々と考えるのが楽しいというか……。
そんな風に思うようになってきたんですよね。
もくじ
と、いうわけで「哀愁しんでれら」観てきたよ
これね、見るからにヤバそうな映画でしょ?

私は、映画に詳しいわけではないし、考察とかも得意ではないので、
今から書くのはただの感想です。
でも、もしかしたら、ネタバレに繋がるところもあるかもなので、
まっさらな状態で映画を観たい人は、この先は読まないでね。
ちなみに私はネタバレ厳禁な人です。
幸せとは?
観終わって初めに頭に浮かんだ言葉がこれ。
そもそも、幸せの形って人それぞれ違うのが当たり前なのに、
ある程度の期間生きていると、世間の目やら周りの声に惑わされて、
人類共通の、幸せのモデルケースみたいなものを作り出してしまう。
で、そのモデルケースに当てはめるために、
親ならこうあるべき、妻ならこうあるべき、夫ならこうあるべき、家族とはこうあるべき……と
身の回りのあらゆるものを、型に無理やりはめ込んでいく。
王子様に見初められて、綺麗な洋服をきて、何不自由なく暮らすっていう、
シンデレラのような、幸せのモデルケースに当てはめるために、
自分の幸せの形を歪ませていく。

幸せを演じるって言葉がぴったりで、ちょっと寒気がしました。
ここでちょっと、私の話をすると、高校生の時に両親が離婚しているんですが、
両親の夫婦仲は、私が9歳くらいの時にすでに完璧に壊れていました。
幸い、父は単身赴任でほとんど家にいなかったので、この映画のように毎日ではなかったけど、
月に1、2回父が家に帰ってくる、たった1日、2日が地獄のようだったんですよね(汗)
もう完璧に家族として破綻しているのに、家族を演じる辛さったら、もう……。
その時のことを思い出しました(笑)
違和感を先延ばしにすればするほど、歪みは大きくなる
初めは幸せいっぱいだった、タオちゃんが、だんだんと違和感を感じ始める……。
でも、これが幸せなんだって思い込もうとして、違和感を見てみないフリをする。
これって誰しもが経験したことがあると思うんです。
でも、違和感って見ていないフリをすればするほど大きくなって、最後は取り返しがつかなくなるんですよね。
違和感を感じる原因って、きっと自分の幸せの形を無理やり歪めているからだと思うんです。

もちろん、価値観なんて、人それぞれ違って当たり前だから、ぶつかることはあると思うんです。
でも、その時に、お互いに歩み寄って、納得して、お互いの形を変えていければいいけど、
どちらかが一歩的に、またはどちらも譲らず、無理矢理、幸せの形を歪めて、
幸せのモデルケースにねじ込んだ場合……
歪めたことが原因で、必ず何処かにしわ寄せがくる。
違和感は、一種の警告だと思うんです。
だから絶対に無視してはいけない。
ここまで振り切っちゃえば、却って幸せなのかも(周りは大迷惑だけど)
タオちゃんは違和感に耐えかねて、一旦は、偽りの幸せから逃げ出すんだけど……
シンデレラになるきっかけになった踏切で倒れているところを、王子様に連れ戻されてしまう。
そこからの吹っ切れ具合があまりにも見事で、明らかに異常な状態になっていってるんだけど、
清々しさすら感じてしまった。
私は、実際の生活では、あまり人に感情移入しない人なんだけど(え……)
映画とかドラマとかには、すぐ感情移入してしまうので、バッドエンドだと本当に辛くなってしまって、実は苦手。
高校の頃、テスト期間中に「LEON」を観て(勉強しなさい)悲しすぎて、
その日、それ以降、何もできなくなってしまったことがありました。(悲しくなくても大してやらなかったと思うけどw)

でも、この映画は、最後完全に破綻しちゃうんだけど、自分たちの幸せの形が一旦粉々に壊れて、
幸せのモデルケースと一体化しちゃった感じで、
外から観ているとバッドエンドなんだけど、本人たちにとってはハッピーエンドで、
多分私は、本人たちに感情移入しているから、
他のバッドエンドの映画を見た時のような辛さがないんだろうなと、自分の感情を分析しました(笑)
自分たちの幸せを脅かすものは駆逐するっていう……
進撃の巨人も今、そんな流れになってるよね(そういえば続きが配信されてたの読まなきゃ……)
アニメも最終章が始まってますね!観たいんだけど……進撃の巨人はホント辛くて、
見るのに勇気がいる(それでも観たい)
奇しくも今、時代の移り変わりで、今までの常識がどんどん壊されていっているけれど、
そんな時代背景が反映されているような気がしなくもない。
ちょっと極端だけど、こういう、今までの常識では考えられないようなことが、
これから起こっていくのかもしれません。
とはいえ、壊す必要がないものは壊さなくていい
破壊と再生は隣り合わせで、新しいものを生むためには、今までものを壊さなければいけない。
まあ、それはわかるんだけど、何でもかんでも壊していってたんじゃ、大変じゃないですか。
私は、できることなら争いは避けたいタイプ。
でもだからといって、自分を犠牲にする気はさらさらありません。
目の前にいる人が、自分にとって、どんな大事な存在であっても、
自分を犠牲にしなければ、関係を保てないのならば
残念だけれど、あきらめて、そっと離れる。
そうしないと、結局はどちらかが壊れるか、全てが破綻するか……になってしまうから。

私はガンだし、あと、どのくらい生きられるか、わからない。
ガンじゃなかったとしても、人の一生なんて、長くて100年くらいしかないのに、
全部壊して一から作り直している暇はないから。
それに、私は母との関係で、一度それを経験してるので、もう十分なんですよ、あんな辛いのは。
ご縁があれば一度離れたとしても、また繋がれると信じているので。
壊れないために、離れる勇気も必要だと私は思います。
寄り添うというのは、全て受け入れることとは違う
最近、本を読んだり、心理学のセミナーを受けたりする中で、
「相手に寄り添う」という言葉がよく出てきます。
ただし、「寄り添う」と「すべて受け入れる」とは違うという言葉も同じように出てきます。
寄り添うというのは、相手を否定せず、相手の話を聞くことなんですが、だからと言って、
相手の言うことをすべて受け入れていたら
相手の言いなりになっちゃいますよね。
まさに映画の中のタオちゃん。
子供の言うことも、夫の言うことも、すべて受け入れていたら、自分が飲み込まれてしまった。

「あなたは、そう思うんだね」と寄り添うことは必要だけど、私がどう思うかは私が決める。
意見が違った時に、相手を正そうとするんではなく、お互いに歩み寄れる人を私は大事にしたい。
そうじゃない人まで、すべて受け入れられるほど、私のキャパは大きくないのです……。
それを改めて考えさせられた映画でした。
バッドエンドだけどハッピーエンドのような清々しさ
先ほども書いたけれど、この映画はバッドエンドだけど、
ある意味ハッピーエンドでもあるような、不思議な映画でした。
つまらなくはなかったし、辛くもなかったし、でも、面白い……って言うのもちょっと違う……。
不思議としか言いようのない感覚でした。
とりあえず、タオちゃんは、かわいいし、演技もうまくて、すごい女優さんだな〜と
月並み極まりない感想で、今日は終わりにします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。