どう生きればいいか、わからなくなった時は


こんにちは。Pop Sick Life
セルフマニュアルサポーターaya.です。


以前、生きることを突き詰めると、
死に近づいていくのでは?
という話を

書いたのですが、
その時に、ふと思いました。


ヨーガ哲学を学び始めて
生きることは?って考える機会が増えたけど、

それまでは死ぬとは?って考える時間の方が
圧倒的に長かった
な……と。


もちろん、それは母が亡くなってからの話で、
それまでは生きることも死ぬことも、
なあんにも考えてませんでした(汗)


と、いうか毎日を過ごすのに精一杯で、
考える余裕がなかったっていう方が正しいかも。



↓動画はこちら↓



ザ・どん底期


母が亡くなって、半年もせず祖母が亡くなった、
あの頃は、どん底という言葉がぴったりなくらい
本当に落ちに落ちていました。


転職したばかりの仕事も続けられなくなって、
入って一年も経っていないのに、

逃げるようにやめて、
自己肯定感なんて
カケラも持てないような状態でした。


そんな中で、漠然と

なぜ、母と祖母が亡くなって、
なんの役にも立たない私が生きているのか

なぜ母は自ら命を絶ったのか

を考えるようになっていました。
そして少し落ち着いて、余裕が出てくると

人は死んだらどうなるんだろう
そもそも死ってなんだろう

と考え始めました。

死=ネガティブ……ほんとに?


いろんな本を読んだり、いろんな勉強をする中で、
段々と、世間では「死」って

ネガティブの極み」みたいに捉えられているけど、
本当にそうなのかなと考え始めました。


お葬式などに出たことがない人は、
わからないかもしれませんが、

亡くなった人って、
すごく安らかな顔をしているんです。


私の母は亡くなった時に顔に赤い斑点が
出てしまっていたので、

弟はお化粧をしてもらう前の顔を
直視できないくらいでした。


でも、ファンデーションで、
その斑点を隠してもらったら

生きて、最後に会った時の顔より
ずっと安らかでした。


祖母は、母が亡くなってからというもの、

「私がこんなだから、苦労をかけたから、
あの子は亡くなったんだ」
(祖母はパーキンソン病と少し認知があり、
グループホームに入っていました)

と、会いに行くたび泣いていて、
本当に辛そうでした。


そんな祖母は、母の死から半年も経たず、
脳梗塞で突然亡くなりました。


やっと母の死から立ち直りかけたところだったので、
私にとっては本当に辛い出来事だったのですが、

祖母の顔は母よりも、もっともっと安らかで、
まるで眠っているよう
にしか見えませんでした。


本当に「仏様」って言葉が
ピッタリな顔をしていました。


2人の顔を思い出すと、生きている頃よりも、
亡くなった時の方が幸せそうに見えたんです。


亡くなった本人にとっては、ネガティブなものではない?


2人が亡くなってすぐは余裕がなくて、
そんなこと考えもしなかったけど、

2人の、あの顔を見る限り、
死がネガティブなものには
どうしても思えない
んです。


そもそも、生きている私たちは
死んだことがないから、

死ぬってことがどういうことなのかを
本当に知っている人はいない。



大事な人を失って残された側は悲しいし、辛いから、
亡くなった人たちもそうだと

勝手に決めつけているだけなんじゃないかな?
って思ったんですよね。


もちろん、私も死んだことはないので、
これはあくまで私の仮説でしかありませんけど、

あの2人の顔を思い出す度、
その思いは強くなっていきました。


今度は自分が死に直面することに


そして、最後に極め付け、
今度は自分が乳がんステージ4
診断されてしまいました。


今までは人の死についてしか考えてなかったけど、
ガンになったことで、自分の死が
一気に身近なもの
になってきました。


ノーテンキな私も、さすがに診断されてすぐは、
怖くて不安でパニックになりました。


でも

「私、ガンにはなったけど、
今までと何も変わってないな」

と気がついて、

「あれ?じゃあ、何が怖いんだろう?」

って考え出したら、
どんどん冷静な自分に戻っていきました。


そうすると今度は

「人って、いつかは絶対亡くなる。
死は誰しもに平等に与えられたもので、

絶対逃げられないのに、
なんでみんな死を見てみないふりするんだろう?」

という疑問が湧いてきました。


しかも私は母と祖母の死で、
死はネガティブなものじゃないんじゃないか?

という仮説にたどり着いていたので、なおのこと、

どう生きるかと同じくらい、
どう死ぬかって大事なことなんじゃないのか
って
考えるようになったんですよね。


どう死にたいかを考えてみた


で、どう死ぬかを考え出したら、
すごく月並みなんですが、

死ぬ時に後悔するのは嫌だ
「色々あったけど、まあ、
これはこれでいい人生でしたって思って死にたい

と思ったんです。


で、そうするとまず、

やりたくないことをするのはやめよう
と思いました。そして次に

何をすべきかじゃなくて、何をやりたいか
で動こう、

人がどう思うかじゃなくて、自分がどう思うか
で動こう、

自分を大事にしよう
といった具合に、どんな風に生きたいかが、
どんどん湧き出してきた
んです。


どう死にたいか=どう生きたいか


その時は全く意識していなかったので
気づかなかったのですが、今回、

「生きることを突き詰めると……」を
自分なりに考えたことがきっかけで、

私は死ぬことを突き詰めたから
自分がどう生きたいかが分かった
んだなってことに
気がつけたんです。


やっぱり、生きることと死ぬことは表裏一体、
二つで一つ
なんですよね。


生きるなら死から逃げることはできない。


本当にたまたまなんですが、ここ数ヶ月間に
「不老不死」をテーマにした映画を
2本立て続けに観てたんですが、

どちらも「不老不死」は
決して幸せな生き方ではない
んだなって
思わされる作品でした。



死があるからこそ、生は美しい


老いて死ぬからこそ、人生は美しいんだと思います。


桜もすぐに散ってしまうからこそ、
美しく咲き誇るわずかな時間を
楽しもうと思うわけで……。


年がら年中咲いていたら、わざわざ
まだ肌寒い時期に、桜の下で飲み食いしようなんて
思わないと思います(笑)


多分、私がここまで死をフラットに捉えられるのは
死をたくさん経験したことと、

自分がいつ死ぬかわからない状態にあるから
だと
思います。


人から見たら、
そこそこハードな人生かもしれませんが、

ハードなことを経験したからこそ、
私は今、とても幸せに生きられています。


常識とか普通とかそういうものに囚われずに、
自分はどう思うのかで
物事を捉えてみてほしいんです。


そして、自分の人生をどう生きればいいか
わからなくなった時は、どう死にたいのかを
考えて
みてください。


きっと答えが見つかると思います。