【日々の澱】本当私とは誰か?
こんにちは。
Pop Sick Life星読みサポーター
aya.です。
ヨーガ哲学のワークショップに
参加してきました。
今年の2月にも
【日常の中の沈黙】という
ヨーガ哲学のワークショップに
参加したのですが、
今回はその続編。
前回と同じく、
ナチュアの三浦綾子さん主催で
講師は金菱先生。
前回のワークショップで
いたく感動して、その日のうちに
ブログに想いをしたためたのですが、
今回も忘れないうちに
書き留めておこうと思います。
面白いのが、前回は
「とにかく今の感情を書きたい!
早く書きたい!」
という感じだったのですが、
今回、当日は、まだ何が書きたいか
イマイチ出てこなかったんです。
むしろ2、3日経った今の方が
これまで学んで来たことと
リンクし始めたり、
「あー、もしかしてこういうこと?」
と、肚落ちする感覚があるんです。
そして、更に前回よりも
理解が深まったような気もして
毎月、ナチュアで
スートラの読み合わせしてきた
成果かも……
なんて思うと
少し嬉しかったりも。
【日々の澱】とは?
さて、改めて思うのが、
綾子さんと金菱先生の
ネーミングセンスの凄さ。
今回の【日々の澱】も
前回の【日常の中の沈黙】も
素敵だなと思ったんですが、
ワークショップを受けた後、
改めてこのタイトルを見直してみると、
もうこのタイトルに
全ての答えが含まれてるっていうか。
よくもまあ、この短い文字数の中で
言い表せるよなと
改めて舌を巻いてしまいました。
私が一番
苦手とするところなんでね(汗)
ついつい言いたいことを
ダラダラ書いて
文章も話も長くなる傾向が……
(ええ、もうすでに
この時点でお気づきでしょうけどねw)
それはさておき、
初めに種明かしをしてしまうと、
私たちは、澱、あるいは澱が
舞い上がって濁った水を
「私」だと思って生きています。
でも本当は、その澱が
全て下に落ち切って現れる
透明な水こそが本当の「私」。
つまり、澱が煩悩、
透明な水が真我。
分かりやすく言い換えるなら
煩悩とは執着、
真我は……魂?宇宙?
(いや、全然分かりやすくないがな)
地球に生きる人間とは?(注:aya.解釈)
ここからは
私の勝手な解釈になりますが、
私たちが魂だった時は
個人個人の区別はなくて
おっきな一つの魂の塊として
宇宙にいて
(「たましい」と「かたまり」って
字が似ててややこしいな……)
地球に人間として生を受けた時、
その塊からにゅーんと枝分かれして
個人になるんだと思うんです。
その時に魂(透明な水)が
瓶のようなものに入れられる。
(でも枝は繋がっているので
完全に分離しているわけではない)
地球って物質主義の星だから、
魂(透明な水)のままだと
存在できないので、
瓶に入れるわけです。
瓶に入れた水は
入れ替わりがありません。
だから、時間が経つほど、
いろいろなことを経験するほど
瓶の底に溜まっていく。
それが澱です。
ワインみたいなもんですね。
感情が揺れる=瓶が揺れる
で、ここからが問題。
この瓶を静かに
寝かせておくだけなら
問題はないのですが、
生きていると
いろんなことが起こります。
起こったことに反応して
感情が揺さぶられた時、
底に溜まっていた澱が
舞い上がって、透明な水は
あっという間に濁ってしまいます。
そして、この澱は
その人がどんな経験をしてきたか、
どんな性質を持って生まれてきたか、
どのくらい生きているのかによって
内容物が変わってきます。
つまり、人によって
赤く濁ったり、
青く濁ったり、
緑に濁ったりと、
一つとして同じ色は
ないわけです。
そして私たちは、
この濁った水を通して
世の中を見ている。
つまり、人によって
世界は全く違った色に
見えてしまうということです。
濁った水を通して
世界を見ている限り、
本来の世界の姿は見えてこない。
いわば幻想を見ているってこと。
(この辺で前回と繋がってきた)
幻想を現実だと思い込む
幻想を見ているのに、
それが本物だと思い込むから
苦しむことに
なっちゃうわけですよね。
そこには、ただ、
川が流れているだけなのに、
赤い濁り水を通してみた人は
血が流れているように見えて
恐れおののいたり、
黄色い濁り水を通してみた人は
砂金が流れているように見えて
狂喜乱舞したり。
そして、そうやって
感情が揺さぶられるたびに、
さらに水は濁って
見えなくなっていく……。
私たちが現実でやっていることって
こういうことなんですよね、多分。
ただの出来事に勝手に色をつけてしまう
例えば、
「痛み」とか「心地よさ」という
感覚だって、
本来は、ただの
感覚の種類でしかないけれど、
「痛み」がネガティブで
「心地よさ」がポジティブって
勝手に決めつけてしまう。
そしてそれに一喜一憂してしまう。
究極、「生」と「死」も
そうだと思うんです。
本来なら「生」と「死」って
表裏一体で対等なもの。
だけど濁った水を通すと
「生」がポジティブで
「死」がネガティブに
見えてしまうから
「死」を恐れて「生」に
執着しちゃうんですよね。
透明な水を取り戻すには
じゃあ、
どうすればいいかっていうと
濁ってしまった水が入った瓶を、
それこそワインみたいに
静かに寝かせたら
いいんじゃないかと思うんです。
そうすれば、澱が下に落ちて
透明な水が再び現れる。
それが、ヨガだったり瞑想。
心の作用の止滅
(瓶を振り回すことを止める)
ですよね。
じゃ、そもそも澱をなくせばいいんじゃ?
で、ここで当然
思い浮かぶのが、
じゃあ、
澱をなくしちゃえばいいのか⁈
ってこと。
でも話は、そう簡単じゃない。
そもそも、
地球で生きていくということ、
つまり瓶の中に
水を入れることと澱は
セットで切り離せないものだと
思うんですよね。
だって、澱=煩悩=執着でしょ?
物質主義の星に生まれて
物質に執着しないなんて、
できるわけがない。
さっき、「死」をネガティブ、
「生」をポジティブって
色付けするから
死を恐れて生に執着するって
書いたけど。
書いたけども。
でも、それって、
もう本能的なもので
一体いつからなのか
わからないほど以前から
脈々と受け継がれているもの。
それを証拠に
感情が(恐らく)ない虫だって、
殺されそうになったら
反射的に逃げるわけだから、
感情を持つ人間が
執着しないで
いられるわけがないですよね。
金菱先生も「執着」が
悪いわけではないよと
おっしゃっていたし。
澱が悪いんじゃなくて……
悪いのは
澱があることではなくて、
そこに透明の水があったことを
忘れてしまっていること
なんじゃないかなと
思うのです。
感情が揺さぶられて、
水が常に濁っていたら、
自分が透明だったことを
忘れてしまって、
濁った水を通してみた世界が
現実だと思ってしまう。
でも、瓶を静かに寝かせて、
澱を下に落としてあげれば、
透明だった自分を
思い出すことができるんじゃ
ないかなぁ。
きっと昔の人々は
こういうことを教えてくれる
長老的な人が
コミュニティの中にいて、
成長する過程で
自然と身につけることが
できたのかもしれない。
でも今は、人と人とのつながりが
どんどん希薄になって、
普通に生活していたら
こういう知恵に
触れることすらできない。
生きるという
基本的な知恵を学んでいないのに、
それ以外の情報は
聞きたくなくても勝手に入ってくる。
だから、澱はどんどん増えていく。
増えていくけど、
澱を落とす術を知らないから、
今、本来の透明の自分を見失って
苦しんでいる人で溢れているんだと
思います。
だから、本当の自分を思い出す
常には無理でも、
せめて週に一回くらい、
澱を落とす時間を
とることができれば、
私たちの人生は
だいぶ生きやすいものに
変わるんじゃないかな。
私たちが今、本当に学ぶべきは、
合理的で効率的な生き方じゃなく、
本当の自分を思い出すこと
なんじゃないかと、思います。


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